店長は、自分の事をあまり語らない。 気を遣われたくないからである。

 だから、その秘密の行動を知るものもいない。
 厳密に言えば、『知る者はいない』と店長が思っているだけで、実はここに例外がいる。

 常に陰ながら店長を見守っている人物、ナギである。

 店長は、特別な用事がない限り、仕事帰りには必ずある場所へと向かう。
 そこで一、二時間を過ごした後、家路につく。 師範の道場で飲み会を行う場合も、大抵この用事を済ませた後である。

 1月初め。
 天気が良い日はそうは感じないが、今日のような曇った日はまだまだ肌寒い。 熱い缶コーヒーをすすりながら、ナギは今日も遠くから店長を見守る。

 店長はいつもと同じように行く途中でスーパーに寄り、温かい缶コーヒーを二本買う。 ナギが飲んでいるものとは違う、やけに甘いやつだ。
 それをカバンに入れると、フンフン鼻歌を歌いながらいつもの場所へと向かう。

 ナギには、その姿が辛かった。

 店長が大きな建物に入っていく。 ナギが見守れるのはここまでだ。
 建物の中にまで入っていく気がないからである。

 いや、正確に言えば

 その光景に耐えられる自信が無かったからである。



 店長が一つの部屋の前に立つ。 壁には名札が付いている。


「二口 隼人(はやと)様」

 ゆっくりとドアを開けると、部屋の中央の大きなベッドに寝ているにろさんが見えた。

「こんばんは、にろさん」

 そう声を掛ける。
 にろさんは眠っている。

 カバンを置き、ベッドの横にある引き出し付きの台を見る。 台の上には冷めた缶コーヒーが一本置いてある。
 それをカバンにしまうと、引き出しからビニールパックを取り出し、ベッドの横につけてある黄色い液体の溜まったパックと交換する。
 熱いお湯を入れた洗面器を持ってきて、台の上に置くと、


「じゃ、ちょっと失礼しますよ〜!」

 明るく声を掛け、にろさんに掛けられた布団をめくる。
 ベッドの手前についているハンドルをぐるぐる回すと、にろさんの上半身側のベッドが起き上がる。

 にろさんは眠っている。

 上着を脱がし、下着が汚れていないかを確認するとそれも静かに脱がす。
 引き出しから今度は清潔なタオルを出すと、お湯に浸けて優しく絞り、にろさんの体を丁寧に拭く。
 持って来た新しい下着に替えると、少し伸びたヒゲを剃ってあげた。 眉にかかる前髪をそっとかき上げると、


「髪、伸びてきましたね。 今度ハサミ持ってきますから、切りましょうか……?」

 そう、優しく微笑んで話しかける。

 にろさんは、眠っている。

 虎鉄は、自分が介護をするという申し出を承諾してくれたこの病院に感謝していた。
 他の誰かに、にろさんの身体を見て欲しくなかったからだ。

 看護士達がそんな目で患者を見ないことは承知していた。 それでももし、『鬼種』であるにろさんを興味の目で見て、身体がどうの、性器がどうのと話していたら……その姿を想像するだけで吐き気がした。
 そして何より、痩せ細った、昔の姿の見る影も無い今のにろさんを、誰にも見られたくなかった

 途中で買った温かい缶コーヒーを、一本はまた台の上に置き、もう一本は自分で飲んだ。

「いやぁ、今日も仕事疲れましたよ〜! やっぱり締めはこの一本ですよね〜」

 そう言いながら、ゆっくりと飲む。

 虎鉄は、いろいろな話をする。 前回上手く話せなかったことや、新しく起きた出来事。 仲間達の話、楽しいイベント。


「で、最後に源司さんが折角ついたお餅を食べようとしちゃって! もう本当にあの人は〜!」

 話しながら大笑いする。

 ふっと、静かな表情になり、にろさんを見る。
 にろさんは、眠っている

 ずっと、眠っている


「にろさん、自分、毎日が本当に楽しいです。 皆さん、本当に優しくて、面白くて。 お酒飲んで、楽しいイベントして、神様専用の温泉なんかにも行ったりして。 沢山のお友達ができて、本当に、幸せです。 だから、心配とか……しないで大丈夫ですからね」

 そう言うと、カバンから封筒を一枚取り出した。

「これ、今月の給料明細です。 本当に副店長の仕事、全然してくれないんだから! 退院したらこれまで溜まった分、めちゃめちゃ働いてもらいますからね!」

 そう言って笑うと、引き出しの一段目を開けた。

 底の深いその引き出しに、上下いっぱいいっぱいに詰まった封筒の束が入っている。
 思いっきり押しつぶして、太い輪ゴムでがっちり縛っている。 
 束を取り出し輪ゴムを外すと、一気にボンッと膨れ上がる。 新しい一枚を足す。 枚数は数えなくても判っている。

 これで、117枚目だ。

 再び押しつぶして輪ゴムでとめる。 引き出しにしまうと、隣に入れてあるにろさんの私物に目が行く。

 財布とカードケース、それと眼鏡ケースだ。

 眼鏡ケースの中には、壊れたにろさんの眼鏡がそのまま入っている。
 目を覚ましたら、新しいのを一緒に作りに行こうと取っておいてある。

 財布は皮製だったから良かったが、カードケースは表が布地だったため、今でも黒いシミがついている。 


 『トラトラ屋』がオープンして三週間、それこそ目の回るような日々だった。

 だが、事前ににろさんが色々と人脈を使ってシステム関連や売買契約といった事務関係を進めてくれていたおかげで、虎鉄は接客に専念できた。
 『順風堂』の頃に来てくださっていたお客様が、変わらず来店してくれた事が嬉しかった。

 勿論、お得意さんだった源司さんもである。 
 笑顔で「店長さん」と呼んでくれた時は、本当に涙が出るほど嬉しかった。

 一通りの事が軌道に乗り、給料日を控えたその前日の夜、懐が寒かろうと笑って、にろさんが食事を奢ってやろうと言ってくれた。
 隣街の結構高い店を予約したそうだ。 もうすぐオープン1ヵ月の前祝いだと笑って先を行く。

 青信号

 前を歩いていたにろさんが、突然のドンッという鈍い音と共に姿を消した。 
 目の前を、トラックが横切っていく。

 虎鉄は、何が起こったのか理解できなかった。 歩行者信号を見る。 青信号が、点滅を始めていた。
 トラックが走っていった方向を、ゆっくりと見る。

 道路に、壊れた眼鏡とその破片が散らばっている
 そして、街灯の下、大きな人影が倒れているのが見える……

 頭から、大量の黒い液体が流れ出していた



「……にろさん……?」



 気付くと、にろさんのカードケースに水滴が落ちていた。

「やばっ、汚しちゃう……」

 引き出しからケースを取り出して拭こうとしたが、指先に力が入らなかった。

 ケースを床に落としてしまう。
 床に落ちたケースは、パタッと開いてしまった。

 拾おうとした虎鉄は、その中身を初めて見た。


 一枚の写真。 そこには若いにろさんが写っていた。
 優しい、楽しそうな笑顔で笑っている。 虎鉄に見せてくれていたのと同じ笑顔。

 そして隣には、同じく優しそうに微笑む女性が写っていた。

 虎鉄は、その女性に見覚えがあった。 いや、正確に言うと、良く知る人物に顔のつくりが似ていた

 虎鉄の母である。

 いつも不機嫌な顔をして、父が帰ってくれば醜い顔で怒り、父を罵っていた母。
 微笑んだら、こんなにも優しい顔になったのだろうか……?

 間違いない、それは母の妹さんであった。
 妹さんは、事故で亡くなったと聞いていた。


―そんなだから奥さんに逃げられるんですよ!!?―


 虎鉄は、拭こうとしていたそのケースにバタバタと水滴が落ちるのを止められなかった。

 その写真には、もう一人写っていた

 四、五歳くらいの……虎獣人の……鬼牙を生やした……子供が…………

 自分と同じ牙を生やしたその子を、自分が愛した人と同じ牙を生やしたその子を、自分達の子供のように可愛がってくれた二人が大好きで、

 その子供は、満面の笑みを浮かべて……楽しそうに……笑って…………

 虎鉄は、ケースに覆い被さる様に四つん這いになって、声を殺して泣いた



「…………叔父さん……!」

 窓を、雨が叩き始めていた。


 病院を出ると、外は大雨であった。
 だが、店長にはありがたかった。 濡れてしまえば偶然誰かに出くわしても、泣いていた事を誤魔化せる。
 カバンの中の折り畳み傘を差さず、雨の中を歩き出す。

 少し歩くと、雨の中に人影が見えた。 いつからそこにいるのだろう、自分よりもずぶ濡れである。
 近付くにつれ、顔がハッキリしてくる。

 ナギさんだ。


「どうしたんですか……!? そんなに濡れて……!」

 近付いて身体を拭いてあげようと思うも、自分もずぶ濡れだ。
 慌てる店長に


「もう、いいよ」

 静かに、ナギが言った。

「でも、体拭かないと、風邪でも引いたら……」

 そう言いかけた店長を、ずぶ濡れのナギが抱きしめた。

「え、な、何ですか……!?」

 顔を赤くする店長に、ナギが抱きしめる手に力を込めて、静かに言う

「もういい、我慢なんて、しなくていい……」

「……ナギ……さん……」

……駄目です…

「辛い時に……」

やめて下さい……

「悲しい時に……」

我慢を……やめたら……誰かに……甘えてしまったら……自分は…………

「泣く事の……」

自分は……立って……いられなく…………

「泣く事の……何が悪い」


 店長より背の低いナギが、店長の胸に顔を押し当てて、ぎゅっと力強く彼を抱きしめる。
 ずぶ濡れで、冷え切っているはずのナギの身体は、それでも、温かく……

 それは、店長の、虎鉄の、張り詰めていた糸を容易く切ってしまうほど、温かく……

 足の力が抜けて、ガクッと膝から落ちる虎鉄を、ナギは力強く受け止める。

 虎鉄は、大声で泣いた。
 子供のように、息を詰まらせながら、何度も、何度も、泣いた。
 押し潰された給料明細の枚数分だけ、虎鉄は泣いた。

 降りしきる雨の中、その声は、二人にしか届かない
 ずっと、二人は抱き合い、そして二人は


風邪を引いた。


 薬を貰うと、虎鉄はにろさんの寝ている部屋にナギを案内した。
 自分の大切な人ですと虎鉄に言われ、ぶっちゃけわかっていたがナギは凹んだ……。

 部屋の前に着くと、
ここがにろさん、えーと、叔父さんの部屋ですと言われた。

「おじ……? ってあの、親の兄弟の……?」
「えぇ、その叔父さんです」


 そう言われて、ホッと胸を撫で下ろす。

 
アレ、何で俺今、ホッとしたんだ……?

 ナギが考え込んでいると、虎鉄はそっと部屋を開けた。 風邪がうつらないように、遠くから覗くだけのつもりであった。

 虎鉄の動きが止まった。 呆然とし、薬が床に落ちた。
 不審に思ったナギが、虎鉄の肩越しに部屋を見ると、

 部屋には何もなくなっていた。

 空のベッド  窓が開けられ、空気が入れ替えられていた
 虎鉄が目をやる  台の上のコーヒーも無くなっていた

 この状況を理解出来ないほど、虎鉄は子供ではなかった
 いきなり全快して、既に退院手続きを取っていると考えられるほど、虎鉄は夢想家ではなかった

 立ち尽くす虎鉄に、ナギはどう声を掛ければよいか、見当もつかない。 
 だが、そこへ

「大河原さん!」

 声がした。

 顔を向けると、にろさんの担当医がこちらに向かって歩いてきていた。
 目が合うと、申し訳無さそうな顔をする。


「すみません、連絡を取ろうとしたのですが、ご自宅にも職場にもいらっしゃらなかったようで」

 こんな日に限って、虎鉄は携帯電話を会社に忘れてきてしまっていた。

「まったくもって、何と申し上げたらよいやら……」

 虎鉄は、もう殆ど話を聞いていなかった。 だが

「鬼種というのは、本当に常識が通用しませんなぁ」

 そう、笑いながら医師は言い、通路の反対側を振り返った。
 つられて虎鉄もそちらに目をやると、曲がり角から一つの大きな影が姿を現した。


にろ……さん……?

 虎鉄は、何が何やらわからなくなった。 鼻の上、眉間の辺りがしきりに痛む。
 どうやら、いきなり全快して、既に退院手続きを取っていたようだ。


「虎鉄……?」

 眼鏡が無いせいか半疑問形だが、間違いない。 その、懐かしい声に、

 虎鉄の目に、涙が溢れ出した

「! 虎鉄……」

 大事な甥っ子が泣き出したことに驚き、にろさんが駆け寄ろうとしたが、まだ頭に身体が追いつかないようだ。 躓(つまづ)いて、転びそうになる。
 虎鉄がそれに気付き、駆け寄って抱きかかえた。

 その身体の軽さに、どんどん涙が溜まっていく。

「虎鉄……」



「老けたな……」



「第一声が……それですか……?」

 虎鉄が、笑った
 昨日あれだけ泣いたのに、次から次へと涙が溢れ出す

 それは、昨日とは違う   嬉し涙だからだろう

 こうして、感動の再会が果たされたわけだが、何やら場の空気がおかしい。
 担当の先生が、汗をかきながらあるものを見ていた。 そしてそれは、再会を果たした二人ではない。

 ゆっくり視線の方向に目をやると、とある人物の足元にコーヒーの缶が転がっていた。
 空になった缶が……

 まさか……
まぁさぁあかぁああああ……!!?

 視線を上げると!

ナギさん・コーヒーまみれ!!!

ギャァアアアアアアアアス!!!!!



「すいませんでした」×2

 感動の再会から一転、土下座の二人。

 その息の合った動作に、ナギが思わず吹き出し、大笑いしてしまう。
 虎鉄とにろさんは顔を見合わせ、そして二人も一緒になって大笑いした。

 外は、日差しが暖かく、心地よい風が吹き始めた


 冬が終わり、

 星見町に、春がやってきた



虎鉄 34歳



おしまい。 


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