「にろさん……?」

 虎鉄の告白に、にろさんは視線を落とした。 てっきり喜んでくれるものと思っていた虎鉄は、完全に意表を突かれた。 
 そして……


「駄目だ、虎鉄……」

 にろさんは、一言小さく、だがハッキリと言った。

 虎鉄の顔から笑顔が消えた。

 自分は、にろさんに好かれているとばかり思っていた……。 だから、就職の事を喜んで貰えると……。
 でも違った……違ったんだ。 勝手な思い込みだったんだ……

 自分はにろさんに、好かれてなんか……いなかったんだ

 頭の中が真っ白になり、うつむき、目には僅かに涙が浮かぶ。
 にろさんがハッとそれに気付き、慌てる。


「虎鉄、ゴメン……! 違う、そういう意味じゃないんだ……!」

 大きな手で、虎鉄の目を優しく拭う。

「ゴメン……。 そうだよな……ちゃんと説明すべきだよな」
「虎鉄、うちの店な…………多分、倒産する



「……え……?」
「来年度の新卒採用は行うそうだが、俺の見積もりでは早くて再来年、それを乗りきっても次の決算は恐らく乗り切れない。 どんなに多く見積もっても、三年以上もたない」


 順風堂が……倒産……?

「名前の通りの『順風満帆』ではなかったという訳だな」

 苦笑いをしながら、にろさんが冗談交じりにそう言った。 

「……な、何でですか……!? うちの店、あんなに売れて……! にろさん、いっつも頑張って! お客さんだって、あんなに沢山……」
「順風堂は各店の独立採算制じゃない。 一店だけ売れていても、全国的に売り上げが落ち込んでいれば潰れてしまうんだよ」


 少し寂しそうににろさんが微笑む。

 理解が追いつかない。 自分が考えていたこれからの事が全て、一瞬で消え去ったという事実が頭に入ってこないのだ。
 呆然とする虎鉄を、にろさんが優しく抱きしめた


「ごめんな、虎鉄……。 でも、大事なお前を、先の無い会社に入れさせる訳にはいかない……。 それでも、一緒に働きたいって言ってくれて……嬉しかったよ」

「ありがとうな、虎鉄」

 にろさんの言葉も、温かい感触も、何か遠くの出来事のようだった。

 虎鉄は、いきなり何も無くなってしまった……


 誰かに相談しようにも、そんな友人などいるわけも無い。
 にろさんには相談できない。 これ以上心配をかけたくない。
 ルール違反なのはわかっていた。 それでももう、この人しか思い浮かばなかった。


「どうしたんですか、店員さん……?」

 不安そうに見つめてくれる、お得意さんの源司さん。 お客様に相談するなんて、最低だな……自分は……
 
 だが正直迷う。 何をどう相談すれば良いのか、そもそも自分は何に悩んでいるのか、そこからよく判っていない。
 就職活動をまた一から考え直さなきゃならない? どの本屋を受けるべきか……? にろさんの再就職先……?? 一緒に働けないか……???

 頭を整理しつつ―


「源司さん、その、例えばですね……この店が無くなってしまうとして……」

「無くなってしまうのですか!?」

 うわっ、やばい! あの話、まだオフレコ……!!

「いや、例えば! ですよ!」

 その言葉を聞いても、源司さんの表情は変わらず驚いたままだ。
 そして、突然しゅんとした。


「寂しいですね」
「え……?」

「ここに、この店がなくなってしまうのは……寂しいです」

 その言葉が、大きく虎鉄の頭に響いた。

 自分は一体、何に悩んでいたんだ……? 自分の馬鹿さ加減に笑いがこみ上げる。
 就職先? どうすれば一緒に??

違う! そうじゃない! 
そうじゃない!! ここに! この場所に!!

この店が無くなるのがイヤなんだ!

だって、当たり前じゃないか! ここは、自分にとって、初めての……

『家』
なんだから……!



―4月

 事務所にはにろさんと自分の二人きり。

 にろさんに言って、時間を貰ったのだ。
 相談が、あったからだ。

 温かい缶コーヒーをにろさんが買ってきてくれていた。 コーヒー牛乳と変わらない、甘ーいヤツだ。
 にろさんも自分もこれが好きで、仕事帰りによく一緒に飲んだ。
 だがにろさんは、それに口をつけようとしない。 自分の言葉を真剣な表情で待っている。

 自分も 覚悟を決めた。

 一口だけコーヒーを飲むと、

「今日は、店長に許可を貰おうと思いまして」

 そう、切り出した。

「許可?」
「はい、もう一つ、バイトを始めようと思うんです。 深夜から早朝にかけてなので、こちらの仕事にはご迷惑はおかけしません」


 にろさんは、完全に意表を突かれたようだ。 驚き、そして再び真剣な表情になる。

「金が足りないのか? にしてもお前、就職活動はどうするんだ?」

「店を立ち上げようと思っています」


 ハッキリと言った。

 にろさんは、無言のままである。


「ここの店舗と土地、両方を買い取って、ここに新しい本屋さんを開きたいんです」

バン!!!

 にろさんが机を叩いた! 凄い形相で怒っている!!
 倒れてこぼれそうになったコーヒーを、虎鉄はすばやくキャッチした!


「ちょっ、にろさん……」

「ふざけるのもいい加減にしろ!! どれだけ金が掛かるか、わかっているのか!!? バイト一つ増やしたぐらいで……!!!」

「わかっています。 ゼミを変更しましたから」

「!!! な……」

「憲法から、商法ゼミに移籍しました。 それから授業も企業法、商法、商取法、大学の授業なんて大して役に立たないものばかりと思ってたんですが、やりたい事が見つかると取りたい授業ばっかりで……」

 笑って虎鉄が話すも、にろさんの形相はさらに激しさを増す!

「お前……何やってるんだよ!!? 卒業の単位、もう全部取って……四年はゼミだけで良かったじゃないか……!! 授業受けて、バイト掛け持ちして……いつ寝るつもりだ!!!?」

「いや、二、三時間は寝れますよ……」

 もはやにろさんの顔は、怒りを通り越して泣きそうだ……。

「お前……何でそんな……それにしたって金はどうするんだよ……!?」
「当てがあります」
「だから! 金額がわかってないんだよ!! 店舗と土地だけじゃない!! 最初の商品の仕入額だって考え……」
「大丈夫です。 ある程度は教授に聞いてわかってます。 その、父にお金を借りようかと……」

「オヤジさん……? 確か離婚の時に、会うことを許されてなかったんじゃ……?」


 アレ、自分にろさんにそこまで話したっけ?

「えぇ、でももう自分も二十歳過ぎてますし、もう親権だの約束だの関係ないでしょ?」

「……そうか、虎鉄のオヤジさんか。 盲点だったな。 あの人なら確かにそれだけの金持ってるな……」
「え、ちょっ、待ってください……何ですか、その『お前の父親知ってます』みたいな言い方は!?」

「……知ってるも何も、石蔵 鉄志(いしくら てつし)だろ? 映画俳優の


「世界で一番有名な虎獣人じゃないか」

ギャァアアアアアアアアス!!!!!

「な! な……!! 何で知ってるんですか!!! どこで調べたんですか!!!?」

「調べるも何も、そっくりじゃないか。」

「他の獣人から見れば、虎獣人なんかどれも同じに見えるはずです!!」

「あぁ、そうか。 鬼種って個体の判別能力が高いんだってさ。 見分けるのなんて朝飯前」
「あぁ……。 な、内緒ですよ……! いいですか!? 絶対!! 誰にも!!!


 必死に念を押す虎鉄に、にろさんがプッと吹き出す。
 怒りがようやく収まったようで、虎鉄もホッとする。


「にろさんには一つお願いがあるんです。 土地と店舗の売却時期を教えて貰いたいんです。 決まったらすぐに……」
「いいが、一つ条件がある」
「?」
「バイトの掛け持ちはするな。 身体を壊されてはたまらん」
「でも、少しずつでもお金貯めないと……」

「オヤジさんに借りる金額は、予定の半分でいい」
「……え?」

「……まったく! お前には恐れ入ったよ! まさか俺と同じ企(くわだ)てを立ててたとはな!


 にろさんが楽しそうに笑う。 ……え、それって……え?

「俺も随分金貯めてたんだがな、どう考えても全然足りない。 あと3年でどこまでいけるかと考えて、もう諦めかけてたんだがな」

 そう笑って言うと、二つのコーヒーの缶をコンッと当てて音を鳴らした。


 
全ては、ここから始まった。



<虎鉄 24歳>

 閉店した店舗から、荷物がどんどん運び出される。
 入口のガラスには、小さな手書きの紙が貼ってある。


”新書店 近日OPEN!!”

 そしてその文字の下には、これまた手描きの似顔絵が。



「お前って、図体に似合わずこういうの描くよな」

「失礼ですよ!!?」

 虎鉄が言うと、二人同時に笑った。

 これから、本当に大変な毎日が続くのだろう。
 でもこの人と、にろさんと一緒なら、きっと……。


「そういやバンダナ、気に入ったみたいだな」
「えぇ、まぁこういうのも悪くないかな、と」

「ハゲ隠しにはもってこいだろ?」


「!!! ……な、な、何言ってるんですか!? ハゲてないですよ!? 意味わかんない!」
「何言ってるんだよ、おでこの辺りが少し薄くなってるじゃないか。 気を遣ってこういうものをプレゼントしてくれる、ステキな上司に感謝したまえよ?」

「……普通の人じゃ絶対判らないレベルなのに……! これだから鬼種ってイヤ!!!」

 にろさんが大笑いすると、

そうだ虎鉄、お前にあだ名を寝ながら考えてやったぞ!

 またわけわからん話題を持ち出してきた。

「……寝ずに考えましょうよ。 いや、そもそもいらないですよ、虎鉄でいいじゃないですか」
「バカモン。 俺に『にろさん』ってあだ名があって、店長何にも無しじゃ駄目だろ?」

「………ちょっと待って下さい、今何か聞き捨てならないことをさらっと言われましたよ? は?」

「自分が店長…!?」


「当たり前だろ、言いだしっぺはお前なんだし」
「にろさんだって同じ事考えてたじゃないですか!」
「でも結局はお前だろ? ちなみに俺は副店長な! 良いぞ〜、副店長!! 店長とほぼ同じ権限を持ち、何か問題が起こったら責任取るのは全て店長!!!」


「き、汚ねぇ!!!」

「こいつはホレ、プレゼントだ。 こいつを机にちゃーんと置くんだぞ?」

信じられねぇ、何このセンス……?

「副店長も置くんですよね……?」
「は? イヤだよ、そんなだっせぇもん」
「にろさん、あんた……最低だよ……!」

「そうそう、あだ名な! 名付けて『トラトラ』!!」

ガフォッ!!! ダセェ!!!!!

「ほら、大河原の『おおかわ』で『タイガ』って読めるだろ? それに虎鉄の『トラ』で『トラトラ』!」

 上手いこと言った!みたいな誇らしげな顔が何ともむかつく!

「で、この店の名前も決めた」
「あ、それは自分も! 二人の名前から『ダイ……」


「トラトラ屋な!」

ギャアアアアアアアアアス!!!!!

駄目だ! この人、早く何とかしないと……!!!

「にろさん、流石にそこは店長の自分に決定権が……」

「俺、賭けに勝ったよな?」

「…………な、何の事ですか……?」
「今の反応で、お前もちゃーんと覚えていたことがわかったな!」


うそぉ……今、ココで!!?

「なんでも一つ、言う事きくんだよな!? ハイ、『トラトラ屋』に決定〜!!!」

あぁあああああ……!

「『トラトラ屋』なんだから、店長は『トラトラ』だよな!? 俺はどう考えても『トラトラ』じゃねぇから虎鉄が『トラトラ』で、『トラトラ』なんだからお前が店長な!」

 おかしい……一つしか言う事きかなくていいはずなのに、何か芋ヅル式に……!
 もう、本当に……


「敵わないですね、にろさんには……」

 そう言って虎鉄は笑った。



 なぁ、虎鉄

 敵わないのは、俺の方なんだよ

 あの日、お前がまだ入ったばかりの頃、源司さんに本を勧めたよな?
 俺には多分、あの人を笑顔にして差しあげる事なんてできなかった。
 他の皆と同じ、神様にとって当たり障りのない本を勧めただろう。

 でもお前は違った。 お前は相手が誰でも変わらず、普通に接することができる。
 一人の客として接して、推理小説なんてものを勧めてくれたお前がいたからこそ、源司さんはあんなにも嬉しそうにしていたんだろう。

 なぁ、虎鉄

 きっとお前は、俺よりずっと素晴らしい『店長さん』になれるよ

 俺は、確信している。

 そうだな、今度は何を賭けようか……?


  

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